阪神淡路大震災の被災経験を胸に、突き動かされるように、東日本大震災の翌年(2012/3)被災地を訪問させていただきました。その時の記録です。ご一緒に、読んでいただけたら幸いです。m(_ _)m

東日本大震災・大津波の被災地を、訪れました

私の自宅が焼失した17年前の阪神淡路大震災、

その何倍もの被害に遭われた東日本を

自分の目と心で感じ、そして自分にできることを実行して行かねば・・・

との想いにかられ、2日間だけやったけど、被災地を訪問させていただきました。

3月3日(土)仙台を発って最初に訪ねたのは日本三景の一つとして名高い松島。

海岸沿いのホテルや商店などは津波の被害に遭いながらも、

2ヶ月後には営業を再開し、今では以前の賑わいを取り戻しつつあります。

お食事をしたレストランの店員さんのお話しでは

「松島湾の島々が津波の勢いを弱めてくれた」そうです。

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営業再開したレストランから松島湾を見渡す。眼下には伊達政宗により建立された五大堂が。

松島だけでなく、観光を産業にしておられた地域には、

一人でも多くの方々に訪れてもらいたい・・・

それが復興につながってゆくと思いながら、

美味しい海鮮丼に舌鼓をうちました。

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店員さんお勧めの海鮮丼。とても美味しかったです!

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雪の残る、五大堂

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松島が観光客で賑わっていたのが、嬉しかったです。


松島を後に、東松島に向かいます。

松島の賑わいから一転、荒涼とした風景が、目に飛び込みました。

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航空自衛隊松島基地。
津波の冠水のため基地機能が喪失しましたが、

いち早く復旧し救援物資の輸送拠点となりました。




東松島市は津波の直撃により死者1,000人以上、

市内全住宅の3分の2を超える約11,000棟が全半壊したとのこと。

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東松島市にて。津波の被害にあった住宅地。

暖かい家庭生活が営まれていた家々を一瞬にして飲み込み、

破壊した大津波の恐怖が、胸に迫ります。

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壁と屋根が残る家々も、内部は凶暴な大津波に襲われ、

がらんどうになっているのを目の当たりにし

背筋が凍る思いでした。

亡くなられた方々のご冥福を祈るとともに

今後どのように防災し、どのように復興して行けば良いのかを

日本という、天災の多発する国に住むすべての人たちで

考えて行かねば・・・と、改めて思いました。


東松島から、やはり甚大な被害にあった石巻市へ向かいました。

石巻市は地震に伴う津波で壊滅的な被害を受け、

死者・行方不明者数は3837人(2012年2月20日現在)と宮城県最大規模です。

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石巻市内、旧北上川河口の中州にある自由の女神像も痛ましい姿に。

左奥に見えるドームは、石ノ森萬画館。

宮城県出身の漫画家、石ノ森章太郎さんの原画などを展示する

「石ノ森萬画館」を訪ねました。

宇宙船をイメージした萬画館の建物は一階部分が完全に水没しましたが、

早期再開に向け頑張っておられるとのこと。

一日も早い再開をお祈りします




石ノ森萬画館にて。

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石ノ森萬画館にて。
画面に入りきれない高さの窓に「津波到達地点」と書かれていました。

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自称「手塚治虫さんの弟子」として、漫画文化を心から愛して止まない私

(子どもの頃、手塚さんが始めた通信制の漫画大学「第1期生」やったんです)

としては、なんとしてもこの石ノ森萬画館が再建され、国内外のファンたちが

訪れる日を願わずにいられません。

次にお訪ねしたのは、石巻市内のすべての病院が震災で機能を失った中で、

災害拠点病院として、地域医療を一手に引き受けることとなった

石巻赤十字病院です。

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石巻赤十字病院

企画調整課長の阿部雅昭さんに

「野戦病院のようであった」という、当時のお話をおうかがいしました。

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阿部さんから、「なぜ赤十字病院が、素早く災害対応ができたのか」ということを

多くの資料をもとにお話しを聴かせていただきました。

石巻市内の拠点病院として唯一津波被害に遭わなかったから、というだけでなく

そこには、大災害を想定した、スタッフ全員による綿密な日頃の取り組みが

あったということを知り、心から感銘を受けました。

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阿部さんと。

阿部さんのご紹介で、ご自身のお店が津波に流され、

今は石巻郊外で板長として活躍されている友人の居るお店

「つる屋」で、お食事をご一緒しました。

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心のこもったお料理の数々をよばれ、阿部さん、板長さんと固い握手を交わして、

その夜の宿へ、向かいました。

    ◇          ◇          ◇


3月4日、南三陸町に向かいました。

リアス式海岸の風光明媚な土地ですが、この地形の特性から

津波の甚大な被害にあった場所です。

町に近づいたところで悲しい光景が目前に。

津波の被害にあった自動車が山間に保管されていました。

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「南三陸町被災自動車保管場所」という、立て看板が・・・



南三陸では、嬉しい光景も目にすることが出来ました。

仮設ながら「復興商店街」がオープンしていたのです!

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南三陸さんさん商店街

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力強く「福興名店街」ののぼりがたなびき、大勢のお客さんで賑わっていました。
ナミねぇも、少しでも売り上げに協力・・・とばかりに、商店街に入って行き、

メチャ美味しそうな「味付けし、スライスした鮮魚を真空パックしたお土産」を

購入。980円なり。

ホテルに戻って食べたけど、おかずとしても、おつまみとしても最高!!

という美味しさでした。

印象的やったのは、お土産に「あの南三陸に行ってきました」書かれた

シールが、貼ってあったこと。

一人でも多くの人に、南三陸に来て欲しい、そして色んなもん買うて帰って

欲しい、それが復興への一歩や! という、たくましく、真っ当な商人魂を

感じました。

復興に必要なのは「哀れみ」ではなく、

被災された人たちの誇りを失わせることの無い「支援」なんやと、私は思います。

「働ける場所」「仕事のできる自分」を取り戻していただけるように

公的予算や義援金が使われることを、願わずにいられません。

南三陸の街に入りました。

目の前に広がるのは、基礎部分だけを残し

建造物をすべて失った街並みでした。

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南三陸町の中心部を流れる八幡川には、今も氾濫の恐れから土嚢が

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大津波飲み込まれた防災対策庁舎には祭壇が設けられ、

たくさんの花が供えられていました。
左手奥の建物は公立志津川病院

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南三陸町防災対策庁舎跡に佇む・・・

津波が迫っていることを町民に告げる遠藤未希さんの声が、

今も聞こえるようでした。

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公立志津川病院

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高台の志津川小学校から街を見つめる

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建物の上に打ち上げられた車

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JR気仙沼線は津波により寸断されたままです

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海側から町を見渡す

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津波の直撃を受けた海岸の水産加工場

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津波で破壊された防潮堤

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それでも今は、鎮まった海で、幾艘かの船が漁を再開していました。

南三陸町から岩手県に入り陸前高田市を訪ねました。

約7万本もの松林が広がる高田松原は年間100万人以上が訪れる観光名所

として有名で、また防潮林として過去には津波被害も防いできました。

しかし今回の大津波によりほぼ全ての松がなぎ倒されてしまいました。

そして奇跡的に残った1本の松が、「希望の一本松」と呼ばれ

復興のシンボルとして保存されています。

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高田松原跡と「希望の一本松」



一本松の根本に「一本松の願い」と書かれた立て札がありました。

「かわった形で蘇ります」という言葉に

松林を誇りにしてきた方々の、熱い思いを感じました

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希望の一本松のように、スックと立っていたい・・・と思う

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松たちは無残な姿になっていましたが・・・

報道で、この松から素晴らしい音色のヴァイオリンを造った方が居る

ということを知り、改めて一人一人が、自分にできる復興への行動を起こすことが

必要やと強く感じました。

宮城県に戻り気仙沼をお訪ねしました。

自らも甚大な津波の被害にあいながら、地元の復興に取り組む

気仙沼市階上地区にある地福寺ご住職の片山秀光さんにお目にかかりました。

地福寺は、ナミねぇの父方の宗派と同じ臨済宗妙心寺派のお寺です

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再建された地福寺にて

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震災直後の地福寺の写真




ご住職の、片山秀光和尚と。

和尚は、高名なドラマー:バイソン片山さんのお兄様という「音楽つながり」もあり、

私の来訪を心から歓迎して下さいました。

「大津波が無かった阪神淡路大震災に比べ、何倍もの被害の大きさに

胸が詰まって、言葉もありません。本当に恐ろしいです」という私に

大きく頷き返されました。

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和尚様の案内で周辺地域を訪ねました。

右手の建物は被災した高校ですが、生徒さんは寺まで避難し全員無事だった

とのことでした。

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打ち上げられ、手つかずで残された船





フジテレビの取材を受ける和尚。

この日は、3.11から間もなく1年ということで、東京のフジテレビから、

和尚様の取材が入っており、私も取材クルーとともに、和尚が案内される

被災状況の一つ一つを聴くことができました。

地福寺の周辺は、旧家の豪邸が海辺に建ち並んでいたそうですが、

ことごとく流されてしまい、一家8人が津波に呑まれて帰らぬ人になり

市外の学校に行っていたお嬢さんだけが生き残った、という家族もあると

悲痛な声で話されました。

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今はとても静かで、日本画を見るように美しい海と松林




津波により残された汽水域に夕日が・・・

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地福寺の境内に設けられた「いのりの広場」には

津波で流された鐘が置かれていました


    ◇          ◇          ◇



仙台に戻り、来年度「神戸スウィーツ・コンソーシアム in 仙台」にご協力下さる

「共生福祉会 仙台ワークキャンパス」をお訪ねしました。

来年度の「神戸スウィーツ・コンソーシアム in 仙台」は、震災復興支援として、

被災地の作業所に所属するチャレンジドの皆さんを対象に開催することから、

地元の中心的な福祉施設として、被災された作業所支援活動に取り組まれている

ワークキャンパスをお訪ねしました。

津波で施設が流され、ワークキャンパスの敷地内に仮設住宅を建て、

活動を再開されてる作業所もあるそうで、所長の市川さんから

「プロップと日清製粉の被災地支援プロジェクトに期待しています!」と

お聞きして、心を込めてプロジェクトの推進にあたらねば・・・と

決意を新たにしました。

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仙台ワークキャンパスにて。

こうして、わずか2日間ではありましたが、1年の時間が経ってなお、

大震災・大津波の甚大な被害から、殆ど立ち直ることのできない状況の過酷さと、

失われたものの余りの多さに、胸がかきむしられるような思いの旅でした。

現実の、あまりの重さに打ちのめされるような日々が続き、

ブログにまとめることがなかなか出来ませんでしたが、昨夜

「3.11発災から1年目。追悼チャリティライブ」

を大阪で開催し、ご参加下さった皆さんに、ブログに掲載した写真を

見ていただきながら、私の唄とお話しを聴いていただいたことで、

「私が打ちのめされてて、どうするんや!!」と、気付きました。

17年前の被災から、

家族や地域の人たちと、チカラを合わせて再起してきた経験。

プロップ・ステーションの「ユニバーサル社会の実現」に向かう活動経験。

娘マキや「わらべ返り」してる母から得た、たくさんのこと。

そして、音楽で「表現すること」「伝える」こと・・・・

いっぱいいっぱい、自分にできることがある、と自覚し、自省しました。

まずは、今年6月から開講する

「神戸スウィーツ・コンソーシアムin仙台」を、ガムバラねば!!

被災されたチャレンジドたちが、

美味しいスウィーツで、周りの人に元気を届ける使者になれるよう

支援者の皆さんとともに、しっかりサポートしたいと思います。

ナミねぇの歌声も、被災地の方々に届けたいな・・・

思えば「人はみな、チャレンジド」やから

支え合って歩んで行きたい。

そう、あらためて決意した、

1年目の、3.11 でした。

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